2005年02月15日

『自分の中に毒を持て』岡本太郎

 「悩める大学生に」と親父さんが出してきたこの本、キレが良いので今日電車での移動中にほとんど読んでしまった。学校行くときは車のが快適だが電車も本が読めるのは良いね。

 岡本太郎という人は、作品を見齧ってはいたけれどもその人間性にまで踏み込んだことは無かった。「芸術は爆発だ」という言葉のイメージだけが独り歩きしていた感もあるし。これを読んでその辺のアサハカな理解が吹っ飛んだ。彼が発しているのは、まさに「生きる」ということに対する痛烈な叫びだ。

 人間が真実「生きる」ことを阻むのは自分自身の他にいない。常に楽な道を選ぼうとする自分、社会システムの中での安寧に甘んじる自分。人にとって全ての瞬間は選択である。楽な道か、死と隣り合わせの困難な道か。そんなときに、これまでの自分を文字通り「殺して」、困難な道を全身全霊をかけて突き進むこと。困難と立ち向かい、これまでの己と闘うその瞬間瞬間に人は生きることが出来る。

 こんなふうに書くとなんだ、って感じかもしれないけれど、実際にこれを実践していくのは生やさしいことじゃない。たとえば、ノーと言えば職とかこれまでの社会的地位を全て失うという時に、ためらわずにノーと言えるだろうか?イエスといった方がラクのように見えるけど、それで生きているといえるかといえばそうではない。全存在をかけたノーを口にしたときに、新たに生きることが出来るのだ。

 私は大学に入って以降は、常にこれまでの自分とは違う自分になるように挑戦的な道を選ぶように意識してきたつもりだ。先学期の授業で小檜山先生も「迷っている間は時間の無駄。その時やりたいことを精一杯やればいい。」と言っていた。私はこの言葉を聞いたときも目からウロコが落ちるような想いだったけれども、果たして100%徹底して実践できているかと言うと、それはまだまだというしかない。

 基本が怠けモノなのでつい楽な方へ楽な方へと行ってしまいそうになるし、実際ここでうんと言わねばというところで首を縦にふれなかったことも数えちゃいないが数限りないに違いない。

 近い将来に就職したりしていやだってなんだって社会の中で生きていかなきゃいけないわけなんだけど、ある「職業」という社会の枠組みの中で満足して縮こまってしまう可能性は十二分にある。でも、あたしはこれからもずっと今まで感じてきたような新鮮な感動を感じ続けていたい。

 演劇をやっていて終幕に聞こえた観客の溜息とか、いつもの景色が初めて見るみたいに見える瞬間とか、メディアにこもってて今までの考え方が全部崩れ落ちていくあの感じとか、思い出にするだけじゃなくてずっと感じ続けていたい。

 珍しく熱くなったけど、この本に書かれていることはずっと忘れないようにしたいね。どっちにしろ死ぬまで生きてなきゃいけないんだから。

 どうでもいいけど就活バッグって無駄にたかくね?
 

岡本太郎 『自分の中に毒を持て』 青春出版社 1988年

投稿者 yosim : 23:58 | コメント (2) | トラックバック

2005年02月12日

『意味と生命』 栗本慎一郎

 春休みということで昨年からサグラダファミリアのようにダラダラと読み続けてきた本を片付けておきました。非常にレベルの高い本なので、どこまで主旨を捉えているか不安ですが、後学の為にも未熟ながら多少のことは書き残しておこうかと思います。

 この本は、マイケル.ポランニーによる暗黙知理論の栗本氏流の解説でありながら、文中にあるようにそこを一歩も二歩も踏み越えようというものなわけです。以下は読まれるためというよりも自分に対する覚書的要素が強くなりそうなので、興味のない人とかあんまり人の意見とか聞きたくない人は読まんほうがいいかもしれません。

 ポランニーの暗黙知理論はそもそも言語を従来の閉じた体系ではなく、開かれた相対性によってとらえることをベースにしている。一つの焦点・目的としての意味を形成する諸細目は、下位概念でありながら別の諸細目の意味となりうる。そこにおける意味付与と意味読解のダイナミズムの中で存在はうまれる。暗黙知理論はこの下位概念と上位概念の相互作用のダイナミズムに注目した層の理論ともいえる。

 メルロ・ポンティは『世界内存在』として言語によって築かれた世界の中にあって存在するものとしての人間を提示してみせ、自然を外部として捉える近代的二元論の問題点を指摘した。ポランニーは層だけではなく、上位が下位に、そして下位が上位に影響を与え合う、相互作用の仕組みにまで論を広げた。その辺が還元主義とは違うところだ。

 ここらへんは余談だけれども、この相互作用の水際というか、いわば内的な理論と外的理論のせめぎあいの部分が身体なワケで、その辺デザインやってる身としてはやはし身体についてはもう少し考えを深めねばいけんと思うわけです。と同時に言語論ですね。こういう本を読むとホント自分はまだまだもいいとこだなぁと思い知りますな。

 で、この層の理論の解説から空間と時間についての議論をはさみ生命論へと話は発展していくわけです。

 時間と空間について言えば、空間が時間によって記述しうるというのはよくある話なものの、そこをもう一歩進めて時間は何によって語りうるのかと。ここではエントロピーの話をしています。エントロピーが基本的には増大するという性質と時間の不可逆性について。このあたりは難しいので理解不足だ。

 そして生命論。ここに至るまでに暗黙知の主要な要素として直感、そして想像力をあげているわけだが、いわばそれらのものが向かわせようとする意味としてのX、別の言い方をするならば場の力とは何かという話。場の力とは諸細目に対する秩序であり、唯一エントロピーを現象させるもののこと。これは現行の進化論の問題点の指摘でもある。まあそんな生やさしい口調じゃないけど。

 結果としては、今後注力されるべきなのは何故このような暗黙知的能力を人間が持つに至ったのかということと、人類が諸細目として位置づけられる場の力Xとはどのようなものなのかということに正面きって乗り込んでいくことなんじゃないかと私は理解した。

 このような能力を可能にする化学レベルでの下位構造とその理論が存在するはずであり、人間が人間としてある意味としての場の力があるのだ。その可能性として清水博氏の自触媒的な揺らぎの理論や量子力学が挙げられているが、やはりまだ可能性の段階に過ぎない。

 料理のための材料は揃っているのだから、これらの諸問題の解決に向かっていくのだけれど、それが理解されたときにはそれまでの世界が崩壊し生まれ変わると同時に、「目覚めたもの」としての人間と上位の力との格闘が始まるだろう。

 私が生きているうちには場の力について今よりは多少分かってるかも知れないけど、本当の意味で解明されるのは更に当分先になるんじゃなかろうか。それまで自分がやるべき事といえば、西欧形而上学的世界観をぶっ壊していくお手伝いと、その上で見える新たな世界を道具を通じて提示していくことかなぁと考えた。いずれにしろ先の長いことよ。

栗本慎一郎 『意味と生命』 青土社 1988年

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2004年09月03日

『チャップリン自伝』上・下

 大昔から部屋の本棚に入っていたもののなんとなく手をつけてこなかった『チャップリン自伝』を、なぜか急に読む気になって読んでみた。多分最初の数ページぐらいは読んだことがあるはずなんだけど、そのときは最後まで行き着かなかったらしい。

 あたしは、実は今までチャップリンの作った映画を見たことが無い。特に避けてきたわけでもないから、機会に恵まれなかったんだろうな。そんな状態で自伝なんか読んだって、あんま面白くないだろうとおもわれるかもしれないけど、読み終わってみるとかえって一本も見ないで読んでよかったんじゃないかという気もする。

 ひとつには、見てから読む人の方が圧倒的に多いだろうということ。ケースバイケースとはいえ、あたしは基本的に少数派に入るのが好きらしい。多分目立ちたがり屋精神の表れだけど。もうひとつは、映画を見たことがないだけにチャップリンその人にかえって注目できたんじゃないかとおもうこと。先入観がない分本人の言ってることが「ああそうなんだろうな」とあっさり受け入れられるというか。まあ裏を返せば初めてチャップリン映画を見るときはもう先入観抜きには見られないということだが。それは作品を楽しむための前提知識ということにしておこう。

 しかし、いまさらあたしなんかが言うのも変な話だけど、チャップリンという人は本当に「本質」というものがなにかとても良くわかってる人だったんだなぁとおもう。決して明るいという時代に生きたわけではないのだけれど、常にそのときそのときの時代の本質を見抜き、それだけでも大層なことだがさらにそれを「笑い」に変えてしまうというのは、やはり凄い。逆に、バブルでうはうはみたいな時代だったら才能を活かしきれなかったかもしれないけどね。いずれにしろ、「笑い」を生み出すのは一番頭のいい人間だというあたしの考えはさらに強く裏付けられたわけだ。

 本というものは、なぜか読むべきときに読んでしまうものなのですね。

投稿者 yosim : 23:09 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月14日

02.『聖なる幻想の宇宙 インド』 森本哲郎 他

 随分時間が空いてしまったけれど読書ログ"ヨンダホン"の二つ目です。
 
 これまでインドについて書かれた本、漫画、あるいは実際に旅行してきたという人の体験談というものに少ないながらも触れてきた私が、その少ない経験なりに感じるのは、私たちのような人々とインドとの出会いは決して穏やかなものではありえない、ということだ。

 そして、それは多くの場合熱狂か拒絶かのどちらかの場合で現れることが多い。あくまでも大まかにいってという話ではるのだけれど。とはいえ、この本に関してもこれはそこまで的外れの考えでもないんじゃないかと思う。

 そもそもこれはどういう本かというと、様々な人々のインドに関する文章をオムニバス的にまとめたものだ。インドという同じ対象について書いていても筆者ごとに結構色が違ってておもしろい。

 とはいえ、違っているとは言っても、私は案外それぞれのリアクションの根本の部分は案外似ているんじゃないかと思う。逆に言えば、インドというと私たちが普段持っている価値観とのあまりの違いにショックを受けると思われているけれども、そうではなくて根本的には同じ価値観に基づいている違う世界であるということにショックを受けるのではないか、ということなのだ。

 インドの人たちは、生まれたときから自分がこの世に何のために生まれたのかを知っている。比べて、近代市場主義社会に生まれた私たちは、その意味を一生かけて探らなくてはいけない。まあ、そうじゃないと言う人もいると思うけど、あたしは一応そう思う。だからこそ、私たちはそれを始めから手に入れている人たちを見ると、そしてそれが社会として成立しているのを見ると、心穏やかではいられなくなる。熱狂なり拒絶なり、なんらかのリアクションをとらなければいけなくなる。

 まあ、どこまで当たっているかは知らないけれど、そんなことを漠然と考えた。いずれにしろ、もっとインドについて知りたいなぁと私に思わせてくれた一冊には違いない。直接行く勇気は今のところない。


 責任編集:森本哲郎  綜合社  1986年

投稿者 yosim : 01:13 | コメント (0) | トラックバック

2004年01月10日

01.『パンツを捨てるサル』 栗本慎一郎

  はじめに言いますが、長いです。暇なときに読んでください。ちなみに、読んだのは去年ですがこれと一緒に同じ著者の
 
 『パンツをはいたサル』 光文社 1981年
 
 についてもちょっと書かなければならない。結構衝撃的なのは、人間を人間にするのは理性である、という一般の説をまず頭から否定するところ。でも言われてみれば、私たちは理屈ではおかしいとわかっていることを平気でする。というか、そうすることのほうが多い。じゃあ、なんでそんなことをするのかというと、それは私たちが"パンツ"をはいているからなのだ。

 ここでいうパンツっていうのは、ヒトが生物学的に生きていくうえではまったく必要のない余分なものの総称です。子供が砂のお城を作って壊すのを面白がるみたいに、余剰な生産を一気に破壊しつくす、というのはヒトにとってたまらない快感なのです。しかも、これはためこめばためこむほど破壊の時に気持ちいい。ヒトは、その先に快感が待っていると分かっていなかったら、苦しいことなんてしないんです。中には断食を続けて生きながらにミイラになる修行をするような高僧もいるじゃないか、という話には、「死ぬときにとてつもなく強烈なエクスタシーを感じていたはず」と一蹴。

 この本、おもしろいっていうより気持ち良い。あたしが常々、なんで自分はこんなに反戦団体や動物愛護団体が嫌いなんだろう、と思っていた疑問をすっきり解消してくれたから。結局ね、理性に訴えかけたってだめなんですよ。ヒトは戦争がしたい、殺戮、破壊がしたい生き物なの。それを恥ずかしがらずに認めた上で、じゃあそういうパンツの脱ぎ方をしないで、どううまくパンツを脱ごうかしら、ということを考えなくちゃいけない。同感。

 もうひとつは、「内知」。近代科学では、人間をはじめとする生物を、機械をしてとらえる。もちろん、人間はただ物理的にものが組み合わさっただけの機械的物体ではないし、ここが重要なのだが、機械そのものも完成した時点でただの物体ではなくなる。要は何が言いたいのかというと、ヒトが考えている意識とかそういう上部構造は、動物としての下部構造に影響される、ということ。たとえば、「腑に落ちる」なんていう単語はまさにこの感じをよく表している。近代社会は、知は外の世界にある、という外知の考えによっていて、私たちの体感とちょっと合わなくなってきている。「発想の転換」というのは、実はこの内知に回帰することである、とも言える。

 『パンツを捨てるサル』のほうでは、「快感進化論」というのがメイン。これも、ダーウィンの進化論をいまだに信じているヒトには多分ショッキングな話。人間は最近ますます快感を感じやすくなっているらしい。つまり、それはどういうことなのか、そうなると出てくる、どうしても捨てなければいけないパンツとは、みたいな。一冊目が腑に落ちてると、衝撃度数は低いですが、ダーウィンの進化論以外の進化論が思いつかないというヒトは一度読んでみると面白いかも。

 ていうか、いきなり二冊分は無謀だった。読むほうも疲れとるだろうが、あたしはもっと疲れとるよ。まあ、とりあえずこんな感じで。第一回は終わり。おしまい。はー疲れた。

 
 著:栗本慎一郎 光文社 1988年

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