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2005年02月24日

世界に広げよう友達の。

 わ。というわけで、今更ながらBlogっておもしろいよねとか言い出してしまいます。オマエ久しぶりに更新してそんな話かよとか言われてもねぇ、思ったのが最近なんだから仕方ないじゃない。まあなんでいきなりそんなことを言い出したのかというとですね、立て続けに直接面識の無い方からのコメントを頂いたのですよ。以下のエントリーにね。

 『意味と生命』 栗本慎一郎
 ひまじん。

 裏を返せばようやく他所様からコメントのいただけるサイトになってきたということでしょうか。いずれにしろ、ネット上に私はここヨという場所を持っているだけで、そこに多少なりとも興味を持った人が引っかかっていってくれるのはとてもおもしろいと思います。やっぱり人との出会いが一番の"エサ"ですから。ますますヘタなこと書けなくなっていくのがアレだけど。そろそろ著作権とか肖像権を侵害しないように気をつけねば。

 しかしどんどん関係者以外立入禁止じゃなくなっていく。変えないけどね。

2005年02月18日

召集。

一人でダブルベッド。

2005年02月15日

『自分の中に毒を持て』岡本太郎

 「悩める大学生に」と親父さんが出してきたこの本、キレが良いので今日電車での移動中にほとんど読んでしまった。学校行くときは車のが快適だが電車も本が読めるのは良いね。

 岡本太郎という人は、作品を見齧ってはいたけれどもその人間性にまで踏み込んだことは無かった。「芸術は爆発だ」という言葉のイメージだけが独り歩きしていた感もあるし。これを読んでその辺のアサハカな理解が吹っ飛んだ。彼が発しているのは、まさに「生きる」ということに対する痛烈な叫びだ。

 人間が真実「生きる」ことを阻むのは自分自身の他にいない。常に楽な道を選ぼうとする自分、社会システムの中での安寧に甘んじる自分。人にとって全ての瞬間は選択である。楽な道か、死と隣り合わせの困難な道か。そんなときに、これまでの自分を文字通り「殺して」、困難な道を全身全霊をかけて突き進むこと。困難と立ち向かい、これまでの己と闘うその瞬間瞬間に人は生きることが出来る。

 こんなふうに書くとなんだ、って感じかもしれないけれど、実際にこれを実践していくのは生やさしいことじゃない。たとえば、ノーと言えば職とかこれまでの社会的地位を全て失うという時に、ためらわずにノーと言えるだろうか?イエスといった方がラクのように見えるけど、それで生きているといえるかといえばそうではない。全存在をかけたノーを口にしたときに、新たに生きることが出来るのだ。

 私は大学に入って以降は、常にこれまでの自分とは違う自分になるように挑戦的な道を選ぶように意識してきたつもりだ。先学期の授業で小檜山先生も「迷っている間は時間の無駄。その時やりたいことを精一杯やればいい。」と言っていた。私はこの言葉を聞いたときも目からウロコが落ちるような想いだったけれども、果たして100%徹底して実践できているかと言うと、それはまだまだというしかない。

 基本が怠けモノなのでつい楽な方へ楽な方へと行ってしまいそうになるし、実際ここでうんと言わねばというところで首を縦にふれなかったことも数えちゃいないが数限りないに違いない。

 近い将来に就職したりしていやだってなんだって社会の中で生きていかなきゃいけないわけなんだけど、ある「職業」という社会の枠組みの中で満足して縮こまってしまう可能性は十二分にある。でも、あたしはこれからもずっと今まで感じてきたような新鮮な感動を感じ続けていたい。

 演劇をやっていて終幕に聞こえた観客の溜息とか、いつもの景色が初めて見るみたいに見える瞬間とか、メディアにこもってて今までの考え方が全部崩れ落ちていくあの感じとか、思い出にするだけじゃなくてずっと感じ続けていたい。

 珍しく熱くなったけど、この本に書かれていることはずっと忘れないようにしたいね。どっちにしろ死ぬまで生きてなきゃいけないんだから。

 どうでもいいけど就活バッグって無駄にたかくね?
 

岡本太郎 『自分の中に毒を持て』 青春出版社 1988年

2005年02月14日

うーむ。

 文章が遅々としてすすまない。

2005年02月12日

『意味と生命』 栗本慎一郎

 春休みということで昨年からサグラダファミリアのようにダラダラと読み続けてきた本を片付けておきました。非常にレベルの高い本なので、どこまで主旨を捉えているか不安ですが、後学の為にも未熟ながら多少のことは書き残しておこうかと思います。

 この本は、マイケル.ポランニーによる暗黙知理論の栗本氏流の解説でありながら、文中にあるようにそこを一歩も二歩も踏み越えようというものなわけです。以下は読まれるためというよりも自分に対する覚書的要素が強くなりそうなので、興味のない人とかあんまり人の意見とか聞きたくない人は読まんほうがいいかもしれません。

 ポランニーの暗黙知理論はそもそも言語を従来の閉じた体系ではなく、開かれた相対性によってとらえることをベースにしている。一つの焦点・目的としての意味を形成する諸細目は、下位概念でありながら別の諸細目の意味となりうる。そこにおける意味付与と意味読解のダイナミズムの中で存在はうまれる。暗黙知理論はこの下位概念と上位概念の相互作用のダイナミズムに注目した層の理論ともいえる。

 メルロ・ポンティは『世界内存在』として言語によって築かれた世界の中にあって存在するものとしての人間を提示してみせ、自然を外部として捉える近代的二元論の問題点を指摘した。ポランニーは層だけではなく、上位が下位に、そして下位が上位に影響を与え合う、相互作用の仕組みにまで論を広げた。その辺が還元主義とは違うところだ。

 ここらへんは余談だけれども、この相互作用の水際というか、いわば内的な理論と外的理論のせめぎあいの部分が身体なワケで、その辺デザインやってる身としてはやはし身体についてはもう少し考えを深めねばいけんと思うわけです。と同時に言語論ですね。こういう本を読むとホント自分はまだまだもいいとこだなぁと思い知りますな。

 で、この層の理論の解説から空間と時間についての議論をはさみ生命論へと話は発展していくわけです。

 時間と空間について言えば、空間が時間によって記述しうるというのはよくある話なものの、そこをもう一歩進めて時間は何によって語りうるのかと。ここではエントロピーの話をしています。エントロピーが基本的には増大するという性質と時間の不可逆性について。このあたりは難しいので理解不足だ。

 そして生命論。ここに至るまでに暗黙知の主要な要素として直感、そして想像力をあげているわけだが、いわばそれらのものが向かわせようとする意味としてのX、別の言い方をするならば場の力とは何かという話。場の力とは諸細目に対する秩序であり、唯一エントロピーを現象させるもののこと。これは現行の進化論の問題点の指摘でもある。まあそんな生やさしい口調じゃないけど。

 結果としては、今後注力されるべきなのは何故このような暗黙知的能力を人間が持つに至ったのかということと、人類が諸細目として位置づけられる場の力Xとはどのようなものなのかということに正面きって乗り込んでいくことなんじゃないかと私は理解した。

 このような能力を可能にする化学レベルでの下位構造とその理論が存在するはずであり、人間が人間としてある意味としての場の力があるのだ。その可能性として清水博氏の自触媒的な揺らぎの理論や量子力学が挙げられているが、やはりまだ可能性の段階に過ぎない。

 料理のための材料は揃っているのだから、これらの諸問題の解決に向かっていくのだけれど、それが理解されたときにはそれまでの世界が崩壊し生まれ変わると同時に、「目覚めたもの」としての人間と上位の力との格闘が始まるだろう。

 私が生きているうちには場の力について今よりは多少分かってるかも知れないけど、本当の意味で解明されるのは更に当分先になるんじゃなかろうか。それまで自分がやるべき事といえば、西欧形而上学的世界観をぶっ壊していくお手伝いと、その上で見える新たな世界を道具を通じて提示していくことかなぁと考えた。いずれにしろ先の長いことよ。

栗本慎一郎 『意味と生命』 青土社 1988年

2005年02月08日

おせっかい?

 先日、ようやくLomoに入れてたフィルムを撮り切ったのでローソンで現像に出したのさ。そんで、確かにちょっとうっかりして巻き戻しきる前に裏蓋を開けちゃったのさ。そしたらご丁寧にもこんな紙が貼ってあった。

★フィルムに光が入っています。 ⇒撮影途中または巻き戻し前にカメラの裏ブタを開けてはいませんか?

アドバイス
余計な光で、せっかくの写真が台無しです。
カメラの説明書にしたがって操作して下さい。

 特に胸に突き刺さってくるのが余計な光で、せっかくの写真が台無しです。という部分。

 子育てだって、子供が失敗したときは本人もそのことで十分屈辱的な気分を味わっているのだから追い討ちをかけるような叱り方は避けましょうというのが最近の定説ではなかったか?余計な光で写真が台無しですだと?

 見ればわかるわ

 というわけで次からは途中で開けないように気をつけたいと思います。

2005年02月07日

はっさくデカイ。

2005年02月06日

カタチから入ることの重要性。

 春休みに入ってからこの方あまりにも気合が抜けすぎてだらけまくっていたわけなんだけど、今日ようやっと重い腰を上げてなんとなく部屋を片付けた。

 つっても相変わらず雑然としているんだけど(捨てるべきものが多すぎて中々捨てられないから)、学期末の獣小屋的様相からはだいぶ回復した。今ならまだちょっとぐうたらな女子大生で済ませるぐらいだ。うん。

 で、部屋と同様休みに入ってから何もする気にならなかったのが、片付けたとたんすげーやる気が湧いてきた。先が見えないとき、とりあえず目の前のことでも何でもやり始めるのが大事みたいですね。カタチから入ると。

 思えば昨日スソを直さねば直さねばと秋学期中思っていたパンツ3本をスソあげに持っていった時点で何かが始まっていたのかもしれない。

 なんて大げさなモンじゃないですが、時間は有効活用したいですね。

2005年02月05日

足が短いんです。

 この布のやり場に困る・・・。私だけ?(だいたひかる風)

050205-susoage.gif

2005年02月04日

ひまじん。

 ひまじんっていうビートルズの曲なかったっけ。ああ、あれはImagineか。しかもジョン・レノンだった。

 そんなわけで気が動転するほどぼーっとしています。こんなことではあきませんなー。春休み中だからこそデイリー&ジャーナル(一日の予定を朝メールで投げて夜実際に何をしたか出す風習のこと)が必要なことを実感しております。そして口だけでなくやるべきだと実感しております。じゃないと就職できません。

 まあせっかくだからちょっとしたことでもダラダラかきますか。

 先日東急ハンズに行ったときに『無罪放免 Muzai For Men』というパーティーグッズを見つけた。男の人がみんな手錠をされて、会場内にいる自分の手錠にあった鍵を持つタダ一人の女性を探すという単純なゲームですね。(ちなみに鍵はグラフィックキーなので物理的な拘束力はありません)

 ここはカンジーズという宴会系のパーティーグッズを扱っているところなのですが、面白いのがやっぱりこういうものはMCとかのアオリやトーク・演出があって始めて生きるんだなーというところですね。状況からプロデュースしていかないと、モノだけあっても生きないわけです。なんとなくウチの研究室でやっているのに近い話になってきました。

 ちなみに私は『座椅子イチロー キビシィー』のところから辿れるMC原稿例に惹かれました。ルール説明後司会のお姉さんが「わかったなら返事をおし!」って。やりてー。

 新しい遊び考えるのって面白いよねー。

2005年02月02日

そしてあの人も。

 研究会の最終発表が終わった。春休みになった。今学期もなかなかに忙しかったし、学期中は一体いつまでこんなことが続くんだということばかり考えてたもんだ。

 最終発表自体は、目標としていたレベルまでは到達できたと思うし、自分でもなかなかまとまっていると思うので満足だ。でも、こうしていざ自由の身になってみると気合が抜けてしまって一体何をしたもんか皆目検討がつかない。

 そんなわけで最終発表が終わってからここ二日ほど抜け殻のように暮らしている。あんなにどうにかしようと思ってた部屋もほったらかしだし。明日は学校に行くことになっているのでそろそろ脱力気分から抜け出して自堕落な生活も今日で終わりにしなければと思ってる。とりあえず早く寝ることからでしょうかね。生活リズムがすっかり崩れてますから。

 そんな気分に拍車をかけているのも、漫画家の中尊寺ゆつこさんが最終発表の日にお亡くなりになったりしたこともちょっと関係しているのかもしれない。単行本を買ったことは無かったけど、中々鋭い漫画をかく人だなぁと思っていて、42歳というのがホントもったいないと感じた。

 いつ死んでも恥ずかしくないように、明日からマトモに暮らそう。